アジアの旅では豊かな自然や歴史的な遺構を訪れたり、グルメや買い物をしたりするのが楽しみなことは言うまでもない。だが、筆者がしばしば足を運ぶのが市場だ。ここは「市場=しじょう」と読まず、「市場=いちば」と読んで欲しい。その方がずっと旅情が増す。市場に張り巡らされ、ごった返す路地を歩くだけで、その土地の熱気が伝わってくるし、屋台でグルメを味わえる。
300種、500店。1階で海鮮を買い、2階で調理してもらい舌鼓み
まず足を踏み入れたのが、釜山のチャガルチ市場だ。ここに近づくと、魚介特有の匂いが感じられる。周辺には露店が軒を連ねているほか、カモメをモチーフにした大きなビルの中に約300種の海産物を扱う店が500店ほどある。そこで買った魚、イカ、エビ、貝などを持って、2階の食堂エリアに行くと好みの方法で調理してくれ、新鮮な海鮮料理を味わえる。買い物代とは別に調理料は1人4000(1ウォン=約0.11円)ウォン程度。そのほか、スルメや韓国海苔、塩辛などを売る一角があり、「お酒のつまみにおいしいよ」と日本語で誘ってくる。
ここにも物価高の波、海鮮もスルメも韓国名産のノリも
この市場の名前は「チャガル」が砂利・小石という意味で、「チ」は丘。敢えて訳するなら「砂利ヶ丘」とでも言うのだろうか。今の巨大な建物以前は屋外に屋台などが立ち並んでいた。だが、波風の激しい日といった天候次第では商売が難しくなったので、2006年にビルが建てられ、買い物しやすくなったという。
ただ、チャガルチ市場に限らず庶民的なお値段の市場も最近は値上がりしていて、釜山出身のガイド氏も「魚も韓国のりなどの乾物も2割から5割くらい高くなった気がする」と驚いていた。
日本人引き揚げ後に、朝鮮戦争の米軍放出品でにぎわった
次に向かったのが国際市場。ここは1876年開港以来、太平洋戦争前は日本人居留地だったが、終戦とともに日本人が引き揚げていった。そこに日本などから引き揚げてきた人たちが持ち寄った物資を換金するような商売を始めたという。その後、1950年に勃発した朝鮮戦争時代に米軍放出品など扱う零細なマーケットとなり、韓国物流の拠点となった。現在では衣料品や日用雑貨など様々な商品が並んでいる。
火災から立ち上がり、かってはメガネ販売でにぎわう
しかし、1950年と53年の冬に大規模な火災が起き、市場が焼けてしまったため、50年代後半に12棟の建物が建設され、約1500店が商売をしている。かっては、メガネの販売で評判になり、日本人観光客も短時間で度のあったメガネを作り買って帰ったという。また、高級ブランドのフェイク商品もあるが、現在は厳しい取り締まりが行われている。食べ物の屋台もあり、韓国のソウルフードであるトッポッキなどが食べられる。
一方、釜山の中心地、西面駅の近くにも釜田マーケットタウンがある。朝鮮戦争で全国から集まってきた避難民らによって始まった。ビルやおしゃれなカフェが立ち並ぶ表通りから一歩入ると雰囲気がガラリと変わる。ここは総合市場、高麗人参市場、農水産物早朝市場なと8つの商店街が1つの巨大マーケットを形作っている。、野菜、果物、衣料品、家電など様々な商品を扱い、卸売りに加え、地元住民が足しげく通う日用品買い回りの場といった感じだ。
大邱の西門市場、買い物ついでに屋台で小腹を満たす
次に訪れたのが釜山から1時間ほどの大邱の西門市場、歩いた感じでは衣料品を扱う店が目立った。屋内に店を構えている区画のほか、小路に面して女性用の普段着や靴、帽子などを山摘みにしている屋台風の店も多い。また、おばちゃん一人で切り盛りしているうどん屋などが連なる一角もあり、買い物ついでに小腹を満たすこともできる
韓国南部の釜山、大邱の市場を駆け足で巡った。いずれの市場も、そこでしか買えない海の幸、山の幸などがそろっていて、独特の熱いオーラを放つ。ただ、こうした場所での買い物は、値札が付いていない場合がほとんで、値切り交渉をしなくてはならい。それを楽しいという向きも有れば、煩わしいと思う向きがあるかもしれない。これから日本以上に寒さが厳しくなる韓国。寒さも忘れる市場の熱気を肌で感じてほしい。
神崎公一(図/文)