北京、2023年6月20日 /PRNewswire/ -- 2019年3月22日、イタリアの代議員委員長、ロベルト・フィコは中国の習近平首相に、国の首長に選ばれた時、どのように感じたかを尋ねました。
「このような大国で首長に選ばれることは、非常な責任と困難が伴うものです。国民の利益のため、私は自分の幸せについては考えないつもりです」、と習首相は答えました。
中国共産党(CPC)中央委員会の地方の党支部から総書記まで、中国首相でありCPCの中央軍事委員会主席でもある習氏は、常に国のことを考え、自らを国民の下僕と考えています。
黄色い大地の息子
54年前、「教育を受けた若者」として15歳の習近平は中国北西部の陝西省にある梁家河村に向かいました。それから7年間この村で、農民とともに労働し生活しました。
当時の習少年の一番の願いは、「村人が食事をとれるように、それも頻繁にできるようにすること」でした。彼は村人を率いて井戸を掘り、ダムを造り、丘をならし、村で最初のメタンガスプールを掘りました。
この7年間の経験が「人々のために役立つことをする」という彼の不変の信念を培った、と、2003年の中国メディアグループ(CMG)のインタビューで回顧しています。
「私は人々の強さ、そして根本的に求められることを目の当たりにしました。その時以来、人々とその社会を真に理解する基本として、実用的アイデアがいくつか私の頭の中に根を張りました。」
1975年10月、習氏は梁家河村と村人に別れを告げます。「教育を受けた若者」として当時の日々を思い起こすエッセイに、「どこに行こうと、私は常に黄色い大地の息子である」と綴っています。
習氏はその後、中国の北部、河北省にある貧しい地域である正定県に行きます。当時正定県の区長であったLi Yapingは、中国は多くの物事が手つかずのままで、一部の人々が責任を担う必要があると習氏は言っていたと語りました。
正定県では、習氏は古い自転車で県全体を見て回り、国により課せられた年間3,800万kgの穀物収穫量が地方の人々を飢餓に苦しめていることに気が付きました。
彼はCPC中央委員会に書簡を送り、地方の農民の困窮は高い収穫ノルマが原因ではないかと提言しました。調査チームが状況を確認した後、彼らはノルマを 3,800万kg から2,400万kgに減らしました。
当時の正定県のCPC委員会委員長であったCheng Baohuaiは当時のことを、人々は習氏の努力を賞賛し、やっと十分な食べ物がここでもとれるようになったと言ったものだと語りました。習氏はまさに自分を人々の中に根付かせ、人々の困窮を受け止めたのです、とCheng は語っています。
国民を中心とした発展
国民のより良い生活への渇望に応えることが我々の使命である。習氏は2012年CPC中央委員会の総書記に選ばれた後、このように述べています。
2013年元旦の夜、習氏は河北省武强県衡水村で困窮する人々を訪れました。村人のGu Chenghu は、習氏が面倒見の良い人物だったことを覚えています。「彼はその時、私の袖に穴が開いているのを見つけました。そして、暖かいコートをくれたのです。」
第18回CPC全国代表会以降、習氏は都市部と農村部の両方を含め100回を超える草の根レベルの訪問を行いました。彼は食品市場の休日の供給量が十分であるか、住民の医療施設の利用のしやすさ、移民労働者の給料を気にかけました。これらの人々の喫緊のニーズと困りごとは、重要なCPC中央委員会の会議の検討事項に加えられ、中国の改革において力を入れる課題となりました。
「私たちは現在、人々を中心とした発展指針を実践しているところです。人々を中心とした発展は国民がもっとも必要とすることに集中しなければなりません」と、2017年6月23日の極貧根絶に関するシンポジウムで習氏は発言しました。
習氏の指導の下、中国は、この国の14億の人々のために絶対的貧困の根絶と適度な繁栄をもたらした歴史的な変化を目の当たりにしました。
中国の一人当たりの可処分所得は2021年度で35,128元(約 4,940 米ドル)に達し、2012年度から112.8%増えています。都市部と農村部の所得比は2.5:1にまで狭まりました。
1995年当時、CMGのレポーターが当時はCPC福州市の市長であった習氏に、彼の人生におけるゴールについて質問しました。
「人々のために有意義なことをするということにでは、私は成就すると信じています」と答えました。